日朝関係史


日本と朝鮮半島との近代史については、学校でも詳しく取り上げることは少ないと思います。このページでは、いわゆる「在日」が生まれるに至った過程について、明治維新〜第二次世界大戦終結までの日朝関係史についてまとめてみました。

 日本朝鮮備考
明治維新以前征韓論の台頭日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。

慶応2年(1866年)末には、清国広州の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった(八戸事件)。また朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、丙寅洋擾やシャーマン号事件の勝利によって、意気おおいにあがっていた。
1868〜1873開国(明治維新)
征韓論の沸騰
そのように日朝双方が強気になっている中で明治維新が起こり、日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。1870年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、1872年1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。

1873年6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団の岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは時期尚早としてこれに反対、10月には収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定された。
1875江華島事件9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。
1876日朝修好条規主な内容:
・日本は朝鮮を独立国と認める(中国=清は朝鮮を中国の属国と考えているので、以後、日本と清との対立が起こってくる。また、朝鮮政府内部も日本と中国との間で揺れ動く。親日派と親清派の争い。)
・日本はソウルに公使館を置く。
・日本は開港した港に領事を置く。 釜山、元山、仁川の開港。
・開港場で日本人が犯した犯罪に対する日本の領事裁判権。
1882壬午事変7月23日 保守派=親清派=大院君の軍隊が開化派=親日派=閔妃一族らに対して反乱。日本公使館も襲撃され、日本公使館員ら死亡。大院君が一時政権の座につくが、清に連行される。清は朝鮮に対する内政干渉を強める。以後、閔妃は保守派=親清派に転向し、政権を維持。
米朝修好通商条約(対アメリカ)アメリカ合衆国と大清帝国の条約案文を朝鮮側が事後承諾する形で締結。この条約の後、朝鮮は清国の強引な干渉により欧州諸国と条約を結ぶこととなり、朝鮮が西欧諸国と締結した一連の不平等条約の先駆となった。

この条約締結以降、朝鮮は第一条の「周旋条項」(「第三国が締約国の一方を抑圧的に扱う時、締約国の他方は、事態の通知を承けて、円満な解決のため周旋を行なう」という文言)に依拠し、日中露などの周辺国によって自国が脅かされる度にアメリカに自国の独立維持のための援助を求めた。

しかしアメリカは、複雑な朝鮮問題への安易な介入を嫌ったこと、朝鮮の経済的価値も低く政治的介入には見合わないことなどの判断から、朝鮮からの援助要請を拒否し続け、1905年にはアメリカのフィリピン支配の継続と日本の韓国(大韓帝国、1897年に朝鮮国より国号を改めた)における宗主権の確立を日米間で相互に承認し合った桂・タフト協定を日本と交わし、同年11月に日韓間で調印された第二次日韓協約によって韓国の外交権が日本に移転するのを承けて、韓国と外交関係を持っていた国々が次々と駐韓公使館を撤収させる中、最初に撤収の意向を表明し、ここにこの条約を事実上破棄するに至った。
1884甲申政変清による内政干渉をきらった開化派=親日派の金玉均らはクーデターを起こすが、清の干渉によって失敗。福沢諭吉と親交のあった金玉均は日本に亡命、その後1994年3月28日、上海で閔妃の刺客によって暗殺される。
1985「脱亜論」発表3月16日に新聞『時事新報』の社説として掲載。無署名の社説だが、1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録されたため、以来福澤諭吉が執筆したと考えられている。

交通手段の発達による西洋文明の伝播に対し、日本は文明化を受け入れアジア的価値観から抜け出した、つまり脱亜を果たした唯一の国だと評した。その上で支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ、両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し、甲申政変を念頭に置きつつ両国が明治維新のように政治体制を変革できればよいが、そうでなければ両国は数年のうちに亡国となり、西洋列強諸国に分割されてしまうだろうと予測した。
天津条約(対清国)甲申政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。この条約によって日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以後出兵する時は相互に照会することを義務付けられた。
1894甲午農民戦争全羅道古阜郡で、群守の趙秉甲(韓国語版)が水税の横領を起こし、その横領に対して全羅道觀察使に哀願を行った農民が逆に逮捕される事件が起きた。この事件により、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起し、甲午農民戦争に発展した。

この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。呼びかけに応じた農民で数万の軍勢が形成された。彼らは全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領するまでに至った。

これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請。天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。

閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。

そのあいだ日本は閔氏政権に内政改革を求めたが、受け入れられず、日清戦争開戦を2日後にひかえた1894年7月23日、日本軍は景福宮を占領した。日本は閔氏政権と対立していた興宣大院君(高宗の父)の復権を行い、開化派の金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は日本の支援のもと、甲午改革を進めた。
日清戦争甲午農民戦争(第一次)が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け入れずに対峙を続けた。日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出すが、清は「日本(のみ)の撤兵が条件」として拒否した。

日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申入れた。この申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含まれていた。これに朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答。一方朝鮮国内では大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集政権を誕生させた。

金弘集政権は甲午改革(内政改革)を進め、日本に対して牙山の清軍掃討を依頼した。そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。
1895下関条約(対清国)日清戦争で日本が清国に戦勝したことにより、4月17日に下関の春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て調印された条約。正式名称は日清講和条約。

・清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
・清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
・割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
三国干渉4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告。「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」

下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「清国の分割」を進めてきたが、清国内の抵抗を危惧してその動きは未だ緩慢なものであり、戦争による賠償で得たイギリス領香港を例外として、露骨な領有権要求は差し控えてきた。だが、日本の要求はこの列強間の「暗黙の了解」を無意味にするものであり、さらに清朝が渤海を挟んで直隷(現在の河北省)と向かい合った遼東半島を失うことで、その政治的権威が失墜して国内の政情が不安定になるような事態の発生は、各国の対清政策を根底から揺るがせるものであった。 そこでドイツやロシアは自国の対清政策を維持するために、この日本の要求を容認できないと考えた。

こうした干渉に対し、首相伊藤博文は列国会議開催による処理を提案したが、外相陸奥宗光は会議によってさらなる干渉を招く恐れを主張し、イギリス、アメリカ、イタリアなど他の列強の協力で勧告を牽制し、撤回させようと目論んだ。しかし、英米が局外中立を宣言したため、5月4日、日本はやむなく勧告を受諾した。
乙未事変三国干渉によって日本の影響力が後退すると、甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族はロシア公使カール・イバノビッチ・ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、7月6日に政権を奪回した。日清戦争直後にロシア軍の力を背景に行った閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。

10月8日、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された。韓国では閔妃の諡号を採って「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。

以後、朝鮮には親日政権ができる。閔妃暗殺については朝鮮だけでなく、列強各国も日本批判を強める。事件後、ロシアはソウルに水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張が高まる中、ダイらアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与したカウンタークーデター事件春生門事件が発生。翌年の露館播遷へとつながっていく。
1897大韓帝国という国名に朝鮮にはアメリカに亡命していた徐載弼が帰国し、独立協会を設立した。徐載弼が協力し、高宗は1897年に朝鮮を大韓帝国という国名に改め、帝国を宣布した。これは朝鮮が清の勢力から脱皮した表示であり、高宗は王の赤い衣装から皇帝の黄金の衣装に着かえた。
1904日露戦争ロシアは下関条約後の三国干渉や1900年の義和団の乱の後も満州(中国東北部)の占領を続けた。ロシアは大韓帝国にも影響を強め、日本と対立する。日本は1902年にイギリスと日英同盟を結び、アメリカやイギリスの支持を得て、1904年に開戦された日露戦争において勝利した。
日韓議定書2月、日本は韓国に日韓議定書を強要し、戦争中に日本が韓国の土地と施設を自由に使えるように協定した。これが日本軍が韓国を実質的に占領するきっかけとなった。
第1次日韓協約8月、日本は韓国に第1次日韓協約を強制し、日本の推薦で韓国に対する財政と外交の顧問を置くことにした。この外交顧問と財政顧問が承諾しない限り、韓国は何も決められないということを協約で強制した。その後日本は、韓国に対する日本の侵略に関して欧米諸国が口出しをしないように、欧米諸国への外交面での働きかけを強めた。
1905桂ータフト密約 (対アメリカ)
7月、日本は米国と桂ータフト密約を結び、日本が米国のフィリピン支配を認める代わりに、米国は日本の韓国保護国化に口出ししないことを約束した。この密約には英国も署名した。
ポーツマス条約(対ロシア)9月、ポーツマス条約において、大韓帝国に対する排他的権利をロシアに認めさせ、日露戦争は終結した。
第二次日韓協約11月17日に締結。これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。

12月21日、韓国統監府設置。初代統監は伊藤博文
1907ハーグ密使事件第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収したが、皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。

3月 韓国皇帝はハーグ平和会議に、日本の干渉を排除し韓国の外交権保護を要請する密使を送ったが成功せず、密使たちは平和会議の外で高宗の密書を読み上げた(。

7月、日本はハーグ平和会議に密使を送った高宗を退位させることを決定。日本は韓国軍を解散させ、第3次日韓協約を結んで韓国の内政まで完全に掌握した。
第三次日韓協約7月24日に締結された協約。

ハーグ密使事件をうけて、大韓帝国議会は7月18日に高宗を退位させた。第二次日韓協約によって外交上の日本の保護国となり、すでに直接の外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により高級官吏の任免権を韓国統監が一部権限を持つこと(第4条)、韓国政府の一部官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は日本の強い影響下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散と司法権・警察権の委任が定められた。
1909伊藤博文暗殺第二次日韓協約以降、日本の朝鮮保護国化に対する兵士・民衆による戦い(義兵闘争)が本格化し、第三次日韓協約によって軍隊が解散させられると、軍人で反乱軍に加わるものが増え、1909年にかけて朝鮮全土に広がり、さらに一般民衆も加わって、最盛期を迎えた。

彼らは日本軍・憲兵・警察と交戦し、役所や鉄道、電信施設などを攻撃した。義兵は一時は首都京城に迫ったが、日本軍に撃退された。さらに日本は軍隊を増強すると共に、9月から2ヶ月にわたる「南韓大討伐作戦」を展開し、1910年までにほとんどを鎮圧した。

1909年10月、義兵闘争に加わっていた安重根が、ハルピン駅において前韓国統監伊藤博文を暗殺。

義兵闘争を鎮圧した日本は、1910年に大韓帝国との間で韓国併合条約を締結して韓国併合を実行した。
民籍法大韓帝国は「民籍法」を制定し、近代戸籍の整備を開始した。朝鮮初の近代戸籍である「隆熙戸籍」の整備が終了したのは日韓併合直前の1910年4月である。併合後も民籍法は維持され、日本の戸籍法とともに朝鮮人に適用された。この時一部の朝鮮人が日本内地風の姓名を届け出たため、当時の朝鮮総督府は1911年11月1日、総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」によって、戸籍や出生で「内地人ニ紛ハシキ姓名」の届出に厳しい制限をつけた。その後、2種類の戸籍法規を統一する必要があったため、1923年「朝鮮戸籍令」(朝鮮総督府令第154号)が公布された。
1908東洋拓殖株式会社設立2月18日制定の東洋拓殖株式会社法(東拓法)を根拠法とし、日本統治時代の朝鮮における日本農民の植民事業を推進することを目的として設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで、京城府及び満州国、モンゴル、サハリン、南洋諸島、ミクロネシアに存在した大日本帝国の特殊会社。

当初は漢城(日韓併合後京城に改名、現在のソウル特別市)に本店を置き、朝鮮の土地5700町歩を所有して、日本からの移民と開拓をその事業として掲げた。会社発足当初から、政府の補助金も受けて土地の買収を進め、土地調査事業(1910年~1918年)で日本が買収した土地のうちから1万1400町歩が現物出資されるなどし、一部朝鮮農民の反撥も受けて買収が停滞するものの1919年には7万8000町歩(全耕作面積の約1.8%)を保有した。

同社の日本人移民事業は挫折したが、買収した土地で朝鮮人の小作を雇い、地主兼金融業を中心業務とするようになった。そのため、日本の敗戦に至るまで朝鮮における最大の地主となり、1937年には小作人7万8667人を擁した。また、皇室が同社の株を所有していたことも含め、第1次世界大戦期以降は朝鮮企業52社の株式を保有し、名実とも日本の朝鮮経営の中心となった。

また、移民事業では日韓併合後の1910年には14万人を数え、その後日本からの移民が1917年には33万人に達した。次いで朝鮮人の満洲入植を図ったが住民の抵抗を受け行き詰まり、経営破綻を経て、フランス・米国向けの社債発行もともなってブラジル・南洋群島への日本人移民に投資した。1917年に東拓法が改正され、本店が東京に移されると共に満洲、モンゴル、華北、南洋諸島にまでその営業範囲を広げた。

第2次世界大戦敗戦後の1945年にGHQより即日閉鎖を命じられた。旧東拓所有の不動産等は、1947年在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁によって設置された新韓公社の管理下に移され、その後1948年3月22日に中央土地行政処へ改組の上で農地改革を迎えることとなる。
1910日韓併合条約8月22日、漢城府(現:ソウル特別市)で調印し、29日に裁可公布して発効。「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」ことなどを規定。

9月30日、朝鮮総督府を設置、1919年まで武断統治を施行、武力で韓国を統制し、反対者を処断した。また大韓帝国という名前を強制的に朝鮮(日本国朝鮮)と再び変えた。
土地調査事業(~1918)朝鮮に進出した日本人が土地を取得するため、近代法に即した土地私有権の確立をすべく、土地調査事業が行われた。本格的な土地調査は、土地調査令の出された1912年より。問題になったのはその第4条。

「土地の所有者は朝鮮総督の定むる期限内にその住所氏名又は所有地の名称及所在地目字番号四標等級地積結数を臨時土地調査局に申告すべし」

土地の申告をしなかったために、あるいは私有の事実を証明できずに多くの土地が国有地とされ、朝鮮の農民の没落はここにはじまったとされる。(山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』岩波新書)

同時に、日本人による土地取得も進んだ。
1911土地収用令4月17日総督府は「土地収用令」(制令第3号)を公布し、6月29日「土地収用令施行規則」を公布。「公共の利益となる事業に必要な土地は、これを収用し又は使用」できると規定。

内閣が公告をした後、起業者の申請により地方長官は収用すべき土地、または使用すべき土地の細目を公告するか、土地所有者・関係人に通知する(19条)。
地方長官が公告や通知した後、起業者は土地所有者・関係人と共に土地物件に関する調書を作らなければならない(21条)。
起業者、土地所有者及び関係人が作った調書の記述事項に対しては異議を述べることができない(22条)。

つまり、朝鮮の場合では総督が認定し、「公告」した場合は一すぐに当事者問(起業者と土地所有者・関係人)の交渉になる。また起業者と関係人の間で協議が整わない時には、地方長官が裁決・決定する権限をもっている。この地方長官の裁決・決定に不服な場合、起業人はさらに総督に裁定を求めることができる。つまり、当時者間で意見がまとまらない時は、地方長官の裁定・決定、さらには総督の裁定という二段階で異議を申したたてることができる。
朝鮮教育令8月24に公布、朝鮮人にのみ適用

普通教育では普通の知識・技能を授け、国民(日本人)としての性格を涵養し、国語(日本語)を普及することを目的とする。
1912明治天皇死去
大正時代へ
1914第一次世界大戦(〜1918年)
1918米騒動第一次世界大戦開始の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年の中頃から急激に上昇し始めた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円 - 25円)。

この背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。また明治以降都市部の中流階級では大量の白米を少ない副食で食べるという食習慣が定着してきていた。一方で農業界からの人材流出のために米の生産量は伸び悩んでいた。大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり、米価暴騰の原因となった。
19193.1 独立運動1918年1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより"十四か条の平和原則"が発表され、これを受け民族自決の意識が高まった李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京府東京市神田区のYMCA会館に集まり、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線となったとされる。

高宗の急死後、国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになった。中心となったのは天道教やキリスト教、そして仏教の指導者たちである。彼等は会合を重ねて大衆化・一元化・非暴力の三原則を取り決めた。同時に朴泳孝など高官への働きかけや学生に対する参加呼びかけも行ったが、前者への働きかけは成功しなかった。

3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者ら33名が集い、「独立宣言」を読み上げることを計画したが、実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした。

本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。それはこの運動を短期間で終わらせることで、パリ講和会議における不安定要因を除いておこうという考えからであった。朝鮮総督府当局による武力による鎮圧(弾圧)の結果、運動は次第に終息していった。

司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、彼らの国内における独立運動は挫折した。その後の朝鮮半島では1945年の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。

この3.1独立運動ののち、日本は朝鮮統治方針を「武断統治」から「文化統治」へと変更した。武断政治の失敗は認識され、国際的には第一次世界大戦を受けて民族自決の機運が高まり、日本の国内では大正デモクラシーの風潮も反映して、民生面の安定を重視した内地延長主義へ転換した。

「文化政治」の下で、朝鮮に対する日本の弾圧は表面上緩和され、言論の自由が一部解除され、朝鮮では新聞や雑誌が再び発行され始めた。 日本は「内地延長主義」と称して、日本ですでに実験済みの旧法を朝鮮に施行し、常に法的に日本と朝鮮や台湾の間に30~40年の開きがあるように法的差別政策を採った。
1920朝鮮産米増殖計画20世紀に入った頃には日本は恒常的な米の輸入国になっていった。米価の抑制のためには大量の米を日本本土に輸入する必要があるが安定的な輸入は困難で、日本の国際収支の悪化要因にもなり、第一次世界大戦中にはその問題は深刻化して、1918年の米騒動へと発展した。

一方、朝鮮半島では三・一運動以来の独立運動を鎮静化のために生活水準の向上が課題となり、そのためにも資金難で進まなかった農業生産向上のための土地・農事改良事業が必要とされた。更に朝鮮総督府及び朝鮮銀行が朝鮮銀行券の安定化のために、朝鮮銀行が準備できる正貨であると同時に朝鮮銀行券と唯一交換できる“外貨”でもあった日本銀行券を日本本土との交易によって獲得する必要に迫られていた。

1920年、朝鮮総督府は30年計画で耕種改善と80万町歩相当の土地改良を行うことを目標とし、まず最初の15年で2億4千万円の経費を投じて43万町歩分の土地改良を行おうとした。これによって900万石分の米の増産が図られ、うち700万石分を日本本土へ移出することで日本国内の米価が下がり、代金としての日本銀行券が朝鮮銀行に入り、更に半島住民の生活も向上して独立運動が沈静化するという目論見であった。

だが、戦後恐慌の影響もあって最初の数年で計画通りの実施が困難となり、実際に行われた土地改良は9万町歩に過ぎなかった。1926年に「産米増殖更新計画」として改訂して再出発した。改訂計画は今後12年間で残りの目標を実現しようとするもので、その計画には日本政府も協力して斡旋資金2億4千万円を拠出し、更に朝鮮土地改良株式会社・東洋拓殖株式会社土地改良部を新設して事業の実施を促進しようとした。だが、世界恐慌の影響による資金不足で事業遂行が困難となり、更に朝鮮米の大量移入は日本本土の農村恐慌を悪化させるとした世論の批判も登場するようになった。このため、1934年に事実上の計画打ち切りとなった。

この間、土地改良や水利改善によって生産性の向上はあったものの、その反面大地主への土地集積や融資の返済に苦しむ中小農民の苦悩の深刻化、更には日本本土への米の移出増大を達成するため(および不況下での現金収入のため)に却って朝鮮半島における1人あたりの米消費量が減少する(その多くは半島住民の米獲得が困難になったことによる)など、朝鮮総督府の目論見には程遠いものであった。

この産米増殖計画によって、水田経営の資金を持たない中農層が没落し、食と職を求めて都市や植民宗主国日本へと流れてゆくことになる。これを村井紀(日本近代思想研究者)は「コメ難民」と呼ぶ。
1922朝鮮教育令改正民族ではなく常用言語で学校を分ける。
朝鮮戸籍令民籍法を置き換える
朝鮮人戸籍は日本人戸籍と完全分離

朝鮮戸籍は朝鮮総督府の管理の下にあり、日本戸籍への転籍は結婚もしくは養子の形での移動のみが認められていた。また、日本の植民地である朝鮮の戸籍に登載されているゆえに、朝鮮人は日本国籍を持つというロジックであり、朝鮮人を日本国民とする根拠法もなければ、朝鮮人を日本国籍から離脱させる法的手続もなかった。つまり、内地の日本人と異なり、植民地の日本国民たる朝鮮人は国籍離脱の自由もなかった。
1923関東大震災
1926大正天皇死去
昭和時代へ
1929光州学生事件10月30日、全羅南道の羅州行きの列車で日本人中学生生徒の福田修三らが朝鮮人女子生徒の朴己玉らをからかった[1]として、朴己玉の従兄弟の朴準埰が福田を殴り、日本人生徒と朝鮮人生徒の間に決闘が始まった。この際、警察が朴準埰と朝鮮人生徒だけを逮捕したので、生徒の不満が高まった。

これが原因となり、11月3日、朝鮮人生徒らは日本の警察や歪曲報道をした光州日報に抗議をし、また朝鮮人学生と日本人学生の衝突が発生し、警察が朝鮮人学生を検挙した。このことが光州高等普通学校の高校生を激高させ、検挙者の釈放を求めるとともに日本による植民地政策を批判して示威運動を展開した。その中の250人の朝鮮人が逮捕され、朝鮮人生徒らは同盟休学を結成し、日本に抗議した。この学生運動に際して、民族主義者と社会主義者の連帯によって結成されていた新幹会が、現地に調査団を派遣して事件の実態を公表する大会を準備したが、警察による弾圧によって失敗に終わった。

この運動は朝鮮各地で1930年まで続き、4万人以上の学生を動員した。この運動は朝鮮全域に広まって6・10万歳運動以降、朝鮮半島で起こった最大の独立運動になった。1953年に大韓民国はこの日を記念するため、11月3日を「学生の日」とした。
1937日中戦争開戦
(1945年の第二次世界大戦終結まで)
皇民化政策の本格始動
1936年8月5日に朝鮮総督に就任、陸軍大将南次郎が、五大政網と称して「国体明徴」「鮮満一如」「教学振作」「農工併進」「庶政刷新」を方針に掲げ、「五大方針は統治の根本趣旨たる内鮮一体の本流に沿ふて一層新たなる意義を帯び其の実績を挙げ得たることに想到し得るのであります」と宣言。

国体明徴:日本が神の子孫たる天皇中心の国家である
教学振作:この国体明徴を教育の世界に展開し、「必勝ノ信念尽忠報国精神ノ昂揚、戦時国民道義ノ確立ヲ図ル」

南は腹心の部下として、かつて平沼騏一郎が検事総長時代に結成した右翼結社「国本社」に共に参加した、塩原時三郎を満州国政府から引き抜き、「教学」を所轄する学務局長に任命。2人が目指したのは、朝鮮人民を軍国日本に忠実に奉仕する臣民に仕立てあげる皇民化であった。

「朝鮮同胞も 天皇陛下の赤子であり皇国臣民であることにおいて内地人といささかの相違もない。…畏くも大御心は内鮮一視同仁、ひとしく 陛下の御民として皇澤をあまねからしめられるにある。これ実に我国体の万邦に冠絶し比類を見ない所以ではないか。」

「日韓は合邦にあらずして併合である。…即ち朝鮮は我皇室の御仁慈の下に併合されたのである。」

「さて、しかし内鮮一体といっても、ただ言葉にし文字に記すだけでは何にもならないのみならず、徒らな口頭禅にをはってはかへって反感反動をまねくばかりであるどうしてもこれを具体的の施策として朝鮮同胞の眼前にあらはし、その納得を獲なくてはならない。その具現として徴兵制度施行これあるのみと考へられた次第である。」

「しかし、徴兵制度実施のためには、その準備がまだまだ十分ではなかった。…教育を振興して、徳育智育の向上をはからねばならぬ。国語普及の必要も絶対である。さうして、より大切なことは朝鮮同胞の皇国臣民たる自覚、この自覚をはっきりさせることだ。皇民化政策はここにおいて強力に実行された。皇国臣民の誓詞、愛国日の設定、国民総力聯盟の活動、教育制度の改正による学校名の内鮮統一及び教育施設の拡充、創氏制度を実施して半島民に氏を創めることを許し、それも内地名を用ひることを勧奨したことなど、すべて精神的皇民化のための施策であった」
1938国家総動員法陸軍特別志願兵令朝鮮人も志願者は日本兵に
朝鮮教育令改正学制一本化、朝鮮語は正課から外れる
1939国民徴用令朝鮮から日本内地への
労務者計画動員開始
7月、朝鮮総督府は労務動員計画を施行し、朝鮮から労働者が日本に渡るようになった。1939年以降、日本政府の労務動員計画によって毎年人員・配置先が決定され、朝鮮総督府によって地域が割り当てられ計画人員の達成が目標とされた。

1940年には強制応募のケースが確認されはじめ、1942年には「朝鮮人内地移入斡旋要綱」により労務者動員が官斡旋に移行。村落への人数割り当てによる拉致、連行同然の強制供出が強化される。1944年に日本国政府は、朝鮮での徴用実施を閣議決定し、労務動員から徴用への移行を9月から実施、終戦までに約30万人を日本に送出した。

1939年度実績 38,700人
1940年度実績 54,944人
1941年度実績 53,492人
1942年度実績112,007人
1943年度実績124,290人

★東京大学教授 外村大は『朝鮮人強制連行』(岩波新書)において以下のように述べる。
「敗戦後も日本での生活を続けた朝鮮人について労務動員されて来た人びとと、それ以外の契機での渡日者とが何か完全に違った存在であるかのように見なすことも妥当ではないだろう。後者の大半は植民地下の朝鮮農村の経済的疲弊のなかで生きる道を求めて渡日を選択した人びとである。そして渡航管理制度が存在していたことをふまえれば、彼らも日本内地において、低賃金労働力として必要とされた限りにおいて移動ないし在留を許された存在であった」

参考資料:「日本鉱業日立鉱山での朝鮮人強制労働」(外部リンク)
1940創氏改名制令第19号(朝鮮民事令中改正の件)朝鮮人戸主は本令施行後六ヶ月以内に新に氏を定めてこれを府又は邑面長に届け出づることを要す 前項の規定による届出をなさざるときは本令施行の際における戸主の姓を以って氏とす

制令第20号(朝鮮人の氏名に関する件)第一条 自己の姓以外は氏として之を用ふることを得ず 但し一家創立の場合に於いては此の限りにあらず 第二条 氏名は之を変更する事を得ず 但し正当の事由ある場合に於いて朝鮮総督の定むる所に依り許可を受けたる時は此の限りにあらず

朝鮮の人名の姓は「本貫」と共に男系血統を示し、同じ男系血統に属する人で一族を構成する。一族の系譜は「族譜」に記される。創氏とは歴史的な朝鮮の家族制度の強制改変であり、日本式戸籍制度への吸収を意味する。創氏には、氏を届出しなかった結果戸主の姓が一家の氏にされたケース(法定創氏)、新たな氏を設定し届け出たケース(設定創氏)の2通りがある。

創氏改名は、学校での朝鮮語必修廃止と日本語強制、神社参拝の強要、志願兵制度の導入といった一連の皇民化政策の文脈の中にあった。
1941第二次世界大戦(〜1945年)
1942日本語常用運動5月6日、国民総力運動指導委員会は「国語普及運動要綱」を決定した。「本運動は半島民衆をして確固たる皇国臣民たる信念を堅持し、一切の生活に国民意識を顕現せしむるため、悉く国語を解せしめ、かつ、常用語として之を常用せしむるにある。」

(1)この運動は、全朝鮮人が生活の全シーンにおいて常に日本語を用いる=朝鮮語を使わない状態を最終目標に置いていた
(2)日本語を理解できない人には理解できるよう学ばせ、理解する人には常用させる、という二段構えであった
(3)むきだしの法令を前面に立てて強制したのではなく、社会的な誘導・強制が主力であった

国語常用運動は地域ごとに異なる多様な方法で行われた。
・配給に差をつける
・相互監視で日本語を使わせた学校
・子供を使った家庭への強制:一日一語運動
・職場、地域社会から日本語講座に送り込む
・朝鮮放送協会の第二ラジオ放送は朝鮮語のまま終戦まで続いたが、放送の中に日本語を朝鮮語の中に入れた。
・罰金、退学、逮捕
など
1944国民徴用令を朝鮮にも適用8月8日、国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施する、とした閣議決定がなされる。9月より実施され、1945年8月の終戦までの11ヶ月間実施される。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡船の運航が困難になるまでの7ヵ月間であった。
1945第二次世界大戦終結

参考資料一覧